<質問>夫婦の愛の行の体位にする質問です。1996年に、のお父が、他の動物のような体(後背位)で夫婦は愛し合っても良いと、話して下さった御言があります。その反面、いわゆる正常位で愛するのが望ましいということを示唆する、その後の御言もあります。体位にするこの二種類の御言の係をどのように理解したら良いのか、明して下さい。

<答え>もう一度、二種類の真のお父様の御言を引用して考えてみたいと思います。まず最初に、他の動物のような体位(後背位)で夫婦は愛し合っても良いと、話して下さった1996年5月1日と1996年7月1日の御言を紹介します。

 皆さんは万物の長なので、すべての愛をえてあげられる王にならなければなりません。皆さんは、愛の中心であり、愛の王です。動物たちは、その種類によって愛の係の持ち方が違います。人間は動物たちから、いろいろぶことができるのです。たくさんの鳥や動物たちが、究材料になってくれます。蛇の交尾時間は71時間で犬は45分です。

 ……

 さあ、今から動物たちの愛の行究しなさい。それは罪ではありません。自分たち夫婦同士で、そうするのは罪ではないのです。そうして、天に行くようになれば、動物も多いし、人も多いのですが、全部マスタしているので、どこに行っても育をして、ついてくるようにといえば、みな喜んでついて行こうとするというのです。何が恥ずかしいですか? 恥ずかしがることが何かありますか? なぜ恥ずかしいのですか? 先生はこのような話しをしても恥ずかしくありません。自然です。恥ずかしく思うのは落世界の慣習です。(1996年5月1日)

 万物の長なので、「うさぎ愛(うさぎたちが愛し合う愛)もし、へび愛もし、いのしし愛もし、とら愛もする」と言いながら、夫婦同士いくらそのような行動をしても、神が「この野!何をする!」と言うのではなく、「おや! 愛する版が世界を占領するのだな。アメン!」と言うようになっているのです。

 更年期というのがあるでしょう。男性でも、女性でも、愛が嫌になる時がるというのです。それをどのようにしますか。どのようにその更年期を越えることができますか。

 地上に動物たちがどれほど多いでしょうか。うさぎもおり、ありとあらゆるものがすべているのです。万物の長なので愛することにおいても、大王にならなければならないのです。

 更年期というならば、一週間に一回ずつ、「この一週間はうさぎ愛の週だ」と言って愛するのです。(笑い)そのようにして、うさぎが雌雄愛するのを見て、「彼らのような愛を今週にする。それでこそ、愛する方法をえてあげることができる王だ」という考えをしなさいというのです。(笑い)それがどれほど驚くべき素晴しいことでしょうか。

 その次には、「とら愛をしよう!」(笑い)そのようにして、「とらが愛する以上の感情を感じながらしよう」と言って、雄雌になってウォと言いながら愛するのです。(笑い)

 「へび愛をしよう!」と言って、頭をこのようにしながら愛するのです。(笑い)笑うことではありません。いくらでも、愛することができる材料が多いのです。(笑い)

 この世界で愛するつがいでいるものを、三分の一ほど話したのですが、りの三分の二の愛まで、はえ、はち、あり愛までもするのです。(笑い)してみなさいというのです。

 そのようにすれば、離婚する暇がありますか。夫を見れば、どれほどおもしろいですか。(笑い)そのようなことを体して、皆さんが一生の間なせるもの(愛する計)を立てても余り得る、愛のモデルがたくさんあるので、それをんでえてあげなさいというのです。ちょうちょう愛もするのです。分かりますか? (「はい」)(1996年7月1日)

これらの1996年に語って下さった真のお父様の御言によって、祝福家庭は犬や猫のような「後背位」で愛し合ってはいけないと教会で指導されて来た、1987年以来の「後背位」禁止令の伝統から、祝福家庭は完全に解放されることになりました。前に紹介したように、私たち祝福家庭の生活において、最高の権威をもっているのは、真の父母様の、より最近の御言です。ですから、真の父母様が新しい生活の規範を発表して下されば、教会の以前の規範は効力を失うことになります。

上記の1996年の二つの御言を比較すると、7月1日の御言では、「更年期というならば」という条件を示す御言が、追加されています。しかし、文脈から判断すると、上記の御言の「更年期」は、「愛が嫌になる時」と説明されていますので、「倦怠期」の間違いである可能性もあります。多くの夫婦にとって、「更年期」は、「愛が嫌になる時」でもあるので、「倦怠期」でもありますが、文脈上、「倦怠期」と解釈する方が、より自然です。次の質問に対する答えで後で紹介するように、体位に関して1993年と1995年にも同様な御言を、真のお父様は語られていますが、「更年期というならば」という件はありません。

次に、子供の種に言及されて、夫婦は目と目、顔と顔を合わせて、男性上位で、即ち、いわゆる「正常位」で愛し合うことが望ましいことを示唆している真のお父様の1997年8月13日の御言を紹介します。

 東洋人と西洋人は言葉が違い、文化が違うだけであって、愛する方式も同じで、感じ方も同じなのに、一つになれないはずがないというのです。そのことを知らなければなりません。それゆえ、一番の怨讐が言葉なのです。文化が怨讐なのです。アメリカ文化、英文化、ドイツ文化、日本文化、文化、ソ連文化……。言葉と文化が問題です。愛の文化は一つです。愛の文化が二つですか、一つですか。(「一つです」)。

 男性が上に上がりますか、女性が上に上がりますか。(「男性が上に上がります」)。違います。私は女性が上に上がると思いますが……(笑い)笑うのを見れば、西洋人もそうであり、東洋人そうであり、過去、現在、未も、億千万代、男性が上がるようになっているのです。なぜですか。女性が上に上がれば、問題が生じるのです。

 さて、子供の種は、上からこのように落ちますか、反に泉がわくように湧き出ますか。(「上から落ちます」)。ですから、落ちるのが便利なようにしようとするので、男性が上に上がらざるを得ないということを、常識的に知っておきなさい。

 愛する方式も同じなのです。喜んで愛する時に泣く人がいますか。「ああ、嫌だ」と目を閉じますか。目をっ直ぐに開いて、顔、五感を合わせようとするのです。そこで一つになりますか、なりませんか。(「一つになります」)。(1997年8月13日)

 この1997年に語って下さった真のお父様の御言では、「子供の種」に言及されて、重力の関係で妊娠しやすい「男性上位」で、人間だけの特権であり、お互いに目と目・顔と顔を合わせるので心情一致しやすい「対面位」、即ち、いわゆる「正常位」で愛し合うことが勧められています。ですから、この御言では、夫が「子供の種」を女性の体内の奥深くに植え付けようとする時、即ち、妻が妊娠する可能性のある時や、妊娠することを望む時は、少なくとも夫が射精する時には、いわゆる「正常位」(男性上位の対面位)で夫婦が愛し合うことが、勧められています。

真のお父様が、同様に子供の種に言及されて、男性上位で愛し合うことを勧めて下さっている御言をもう一つ紹介します。

 愛する時、なぜ男性が上に上がらなければならないのでしょうか。そうしてこそになるからです。種はどこからるのでしょうか。天からます。何を通じてるのでしょうか。愛を通じてます。それ一つが全部を証明します。そして、種というのは父から的な愛の凸を通じてます。凸と凹が合えば天地が振動します。(1989年1月6日)

参考のために紹介しますと、回教の「伝承(スンナ)」の教えの中には、犬や猫の交尾のような「後背位」の体位で夫婦が愛し合うと、斜視(やぶにらみ)の子が生まれるという教えがあります。 体位と斜視に関する回教の教えは、科学的な教えではないとしても、最高に素晴らしい子女を生むためには、やはり、神様が与えて下さった人間だけの特権である目と目・顔と顔を合わせる「対面位」で愛し合うことが望ましいという内容は、真の父母様の御言に合致する内容です。

祝福夫婦が愛し合う時の体位に関する真の父母様の御言は、いろいろとありますが、三日行事を終了した後の本然の夫婦(祝福二世を含む)においては、妻が妊娠する可能性のある時には、素晴らしい子女を産むことを願うのであれば、少なくとも夫が射精する時には、いわゆる「正常位」(男性上位の対面位)で愛し合うことが勧められています。

日本人の信仰は「律法主義的」になりやすいので、明確にしておきますが、妻が妊娠する可能性がある時に、「正常位」以外の体位で愛し合ったならば、罪になるというわけではありません。素晴らしい子女を産むためには、少なくとも射精する時には、そのような妊娠しやすい「男性上位」で、人間だけの特権であり、お互いに目と目・顔と顔を合わせるので心情一致しやすい「対面位」で、即ち、いわゆる「正常位」で、愛し合うことが勧められているだけであって、祝福家庭に要求されてはいません。しかし、子供たちも、父母が犬や猫の交尾のような体位で愛し合って妊娠して産まれたと聞かされたとすれば、良い気持がしないのではないかと思います。

一方、排卵期ではない時や妊娠中や更年期などの妊娠する可能性のない時には、「女性上位」や「後背位」を含めて自由な体位で愛し合って射精することが勧められていると解釈すれば、御言相互間に対立する内容はなくなります。私は、真のお父様の御言に基づいて、夫婦が愛し合う時の体位については、そのように解釈することをお勧めしています。




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