<質問*>祝福結婚の目的について、説明して下さい。

 

<答え> 既成のキリスト教倫理学では、人間の結婚目的に関しては、1)男女一体化目的と、2)子女出産・養育目的の二つの観点から、一般的に説明されてきました。そして、二つの目的の中でも、ローマ・カトリック教会では、初代教会以来、伝統的に「子女出産目的」を結婚の主要目的として強調する傾向がありましたが、プロテスタント主流教会は、一般的に「男女一体化目的」の方を結婚の主要目的として主張してきました。

それに対して、真の父母様を中心とした祝福結婚には、一番目の一体化目的には、単に夫婦が一体化するだけでなく、縦的父母である神様に似た姿となって、二性性相の中和体である神様の有形実体対象となり、神様と完全に一体化するという別の次元の一体化目的があります。また、二番目の子女出産・養育目的には、単なる子女ではなく、原罪の無い子女を生み育てるという、既成キリスト教会には無い目的があります。

ですから、祝福結婚には、そのように神様と愛を通して完全に一体化して、神様の愛を完全に相続し、神様の完全な代身者・第二創造主となり、原罪の無い子女を生み育て、神様の完全な同参者・相続者となるという重要な意味があります。

しかし、原罪を受け継いだ堕落人間が神様の愛を完全に相続して、原罪の無い子女を生むためには、祝福結婚を通して、まず原罪を清算して、血統転換し重生する過程を通過しなければなりません。それゆえ、真の父母様を中心とした祝福結婚には、既に重生した祝福父母から生まれた祝福子女(祝福二世・三世)を除いた一般人男女の堕落人間には、原罪を清算して、血統転換し重生するという非常に重要な特別な目的があります。

ですから、原罪を清算して、血統転換し重生して、神様と完全に愛で一体化するためには、更年期を迎えて子供を生めない年令になった壮年老年の既成夫婦であっても、すべての夫婦が祝福結婚の関門を通過しなければなりません。真のお父様は、「全人類は祝福の門を通らなければ、天国へ行くことができません」と語られています。

それゆえ、祝福家庭においては、「一体化目的」(夫婦の完全一体化・夫婦と神様の完全一体化)が祝福結婚の主要目的であり、原罪の無い子女を生み育てるという「子女出産・養育目的」は、二次的・従属的目的であると言うことができます。「一体化目的」は、すべての祝福家庭に該当しますが、「子女出産・養育目的」は、該当しない壮年老年の既成祝福家庭も存在するからです。

祝福結婚に関する真のお父様の御言はたくさんありますが、その中から三つだけ次に紹介します。

 

統一教会で行なう合同結婚式は、単純に男女が出会い、一つの家庭を築く婚礼式ではありません。今までの結婚式は自己を中心とするものでしたが、私たちの結婚式は神様に喜びを返し得る内容をもって、歴史を蕩減する貴い条件として、神聖かつ盛大に挙行されなければなりません。私たちの結婚式とは、アダムとエバの堕落によって始まった神様の恨みを解怨してさしあげ、イエス様が成せなかった新郎新婦の基準を通過することであると、原理ははっきりと説明しています。(1969年2月4日)

 

そのように蕩減復帰摂理歴史的な観点から見れば、祝福結婚には、新郎新婦が本然のアダムエバの立場を復帰して、アダム家庭の堕落とイエス様の家庭の未完成によって生じた神様の恨みを解怨してさしあげ、神様に喜びを捧げるという目的があると表現することもできます。

 

祝福が何であるかと言えば、神様と共に一つになることです。神様と一つになれば、全体を得るようになります。神様のすべてのもの、主体が持っている全体を受ける勘定になります。

神様は永遠なる生命を持っています。永遠なる生命。そして普遍の愛を持っています。それから主体として、理想とする愛の世界観を持っています。この全部を相続するのです。それゆえ、祝福、結婚することは、結局全部を受けることです。

まず、神様の愛を受けます。そうして神様の実体を、神様ご自身の実体を私たちは受けることができます。

それだけではなく、すべてのものまでも、神様のものではなく自分のものになるのです。それゆえ、結婚というその問題は、すべてのものを相続することなのです。

最も貴い愛を相続し、神様自体を相続し、そしてすべてのものを相続します。このような意味で祝福という言葉を使っています。祝福を得るというのは、福を受けることです。(1975年1月21日)

 

 結婚すれば、皆さんの思い通りにはできないのです。どこに行かなければなりませんか。神様の愛を受けるために行かなければなりません。

 神様の愛に会おうとすれば、女性は男性と一つになり、男性は女性と一つにならなければなりません。そうしなければ、神様の愛に会う道がないのです。神様の愛に会うことにより、神様の隣に立つことができるのです。男性と女性は何を中心として一緒に立っているのかと言えば、顔立ちでもって立っているのではありません。愛というものなのです。男性と女性、夫婦は愛のために存在するのです。

 そのような愛を、神様はなぜアダムとエバに要求されたのでしょうか。神様がその愛を中心として、一つになることができるからです。それゆえ、夫婦の愛は、神様の愛を連結させるためのものなのです。それだけでなく、神様の持っているあらゆるものが、二人の所有権内に入ってくるのです。ですから、愛は驚くべきものなのです。同参的権威を許されると同時に、すべての所有権を伝授されるという、驚くべきものなのです。

 それは、どういうことかというと、神様はアダムとエバを愛したので、御自身をアダムとエバに下さるのです。御自身を下さるだけではなく、理想的な愛までも私たちに任せるのです。ですから、そこに属するすべての宇宙は、自動的に伝授されるようになるのです。そのような相続圈が得られるのです。(1986年4月12日)

 

李相軒(イ・サンホン)先生は、霊界からのメッセージの中で、堕落の血統を受け継いだ堕落人間が原罪を清算して、本然の美しい姿になるためには、祝福結婚式に参加して、真の父母様を通して、血統転換を成し、神様の子女として清く美しく生まれ変わることの重要性を、次のように強調しています。

 

(4)祝福と人間の変化

 堕落していない人間は、天国の理想郷に向かって行く大変善良で美しい本然の性禀をもった存在でした。しかし、堕落によってこれらすべてを失った人間の顔形は、本然の園で神様が願われていた形状とは反対の姿に変わってしまったために、いくら外的に美しい顔をした人であったとしても、その血統の中には堕落の血が流れているのです。そして、堕落の血統による暗く濁った黒い血をもっているため、そのそばにいると悪臭や堕落の生臭い匂いがするのです。したがって、人間がこのような姿である限りは、決して神様の前に行くこともできないし、天国という所にいることもできません。

 人間がいくら善良に生きていたとしても、堕落した体の中に罪の芽が育ち、汚れた堕落の血が流れている限りは、人間は神様の子女として進むことも、立つこともできません。しかし、真の父母様の祝福によって、これらのすべてが清算され、神様の前に行くことのできる最も早い近道と、偉大なる関門が切り開かれるようになりました。

 どんなに醜い姿をしていても、また、どんなに残酷な罪人だとしても、祝福を受けた後の彼らは、美しい香りと光を発散する姿に変化し、真の姿となることができるのです。

 このように祝福式は、真の父母様の功労によって人間の姿が変化し得るという、最も大きな行事なのです。ところが、あれこれと避けながら、この祝福を受ける機会を逃した者がいるとするならば、彼は永生の命に関する限り、永遠に神様から遠く離れた所にとどまる者になるでしょう。

 実に不思議な現象は、祝福を受けて初めて各自の問題解決の道が開け、真の父母様によってのみ新たに変われる契機が作られるという点です。それゆえに、この貴い時と時期にうまく歩調を合わせて、それを我が物としてつかむ者だけが、天国の民となり、神様の子女として登場できるのです。(1998年8月29日)

 

さらに李相軒先生は、霊界からのメッセージの中で、次のように「祝福の関門を通過しなければ、真の愛を実践することができません」と語られて、真の愛と祝福結婚の一体不可分性と重要性を強調しておられます。本書は「真の愛」が、重要な主題の一つになっていますので、「愛と祝福」に対して語られている部分も引用して紹介することにします。

 

 我々が一般的に考える時、真の愛は、無限に与えて受けるアガペー的な愛を連想します。ですが、真の愛とは、神様を中心として、完全一体の四位基台が成された愛をいうのです。

 それゆえ、祝福を受けることができずに重生しなかった者は、真の愛の隊列に同参することができません。また、天国に来ることができるチケットもありません。すべてが祝福の隊列に参与するよう努力しなければなりません。(1997年8月7日)

 

(5)愛と祝福

 愛と祝福は非常にたやすいものに見えます。しかしそれは、とても高貴なものなのです。愛と祝福は、ちょうど心と体の関係と同じです。

 神様の願われた本然の理想郷は、愛そのもので造られた世界でしたが、堕落によって本然の愛を失ってしまったがゆえに、愛は卑しく汚れたものとして感じられてきました。しかし、神様が願われた本然の愛とは、神様と人間が一体となることのできる愛でした。愛の理想郷という、神様の臨在できる場でした。

 それゆえに人間が、失った愛を直接取り戻していくという道が、祝福の関門となるのです。祝福の関門を通過しない者は、神様の願われる愛らしい愛を実現することができなくなります。目で見る愛、言い換えれば地上の愛とは、当事者がお互いに好きだからといって結婚する愛です。そして結婚したのちに、二人だけの暖かい愛の巣を築いて夫婦愛を感じます。これが私たちの知るところの平凡な愛です。

 しかし、神様が望まれ願われる愛らしい愛とは、二人だけでなく、人間に最も大きな祝福として与えられた万物までが、一緒になって祝いながら、喜びの中で共に受け答えできる愛です。例えば霊界では、一組の夫婦が愛し合うなら、神様の美しい光がまずその夫婦の愛に応えます。すると、その周りにある花や風、草木や、鳥や、波までもが、一緒になって各自の才能を発揮して祝いだします。花は美しい香りを、風は暖かい息吹のような温もりを、波は美しく波を打つ旋律を、木の葉はゆらゆらと揺れ、鳥はチュンチュンとさえずりながら、それぞれが美しさの極致の姿を見せて、その夫婦の愛に受け答えをします。その瞬間、神様のまぶしい光と体が彼らを包んでいきます。この場面は、それこそ大壮観です。

 この美しい場面、場面を見る彼らも一緒になって、うっとりと陶酔してしまいます。これらが、どうして人間だけの努力でなされるでしょうか! 決して人為的にできるものではありません。祝福という貴い関門を通過しなければ、この境地に到達できないのです。

 したがって人間は、このような祝福の価値と恵みを下さった真の父母様に深く感謝すると同時に、真の父母様を送ってくださった神様に感謝しなければなりません。私の結論は、愛らしい愛とは、祝福の関門を通過しない人には全く期待できないということです。(1998年8月29日)

 

そのように祝福結婚には、大変に重要な意義と目的があります。ですから、不足な私たちが、そのように貴い祝福を受けるこができたことに対して、神様と真の父母様に心から感謝を捧げると同時に、まだ祝福を受けていない周囲と親族のすべての人々を祝福結婚に早く導いてあげる努力を、私たちは一層熱心にする必要があります。

 

<参考書籍>
   




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